英会話を勉強している人の多くは、
「外国人と話せるようになりたい」
「海外旅行をもっと楽しみたい」
「仕事で英語を使えるようになってキャリアアップしたい」
といった目標を持っているだろう。もちろん、それらはどれも素晴らしい理由だ。
しかし、私自身の50年近い英語人生を振り返ってみると、英語が私にもたらしてくれたものは、そうした想定内の目的だけではなかった。
15歳で高校受験に失敗し、中学浪人を経験した私には、決して英語の生まれつきの才能があったわけではない。ただ、自分で立てた計画を信じ、毎日コツコツとラジカセの前で英会話の練習を繰り返していただけだった。
ところが、その泥臭い「素振り」の積み重ねは、当時の私が想像すらしていなかった、思いもよらない遥かなる場所へ私を連れて行ってくれたのだ。
JTB添乗員としての海外業務、世界的デザイナーであるピエール・カルダンとの出会い、そこから始まったイギリス・フランスへの留学、そしてイタリア・フィレンツェでの日本料理店開業プロジェクト……。
今回は、英語を勉強し始めた15歳の私には絶対に予測できなかった、英語がもたらしてくれた「予想外の出会いと人生のチャンス」について、当時の貴重な写真とともに振り返ってみたい。
- ✓ 英語学習が人生にもたらす、想像を超えたポジティブな変化
- ✓ 中学浪人というどん底から始まった私の英語人生の軌跡
- ✓ JTB添乗員時代に起きた「ピエール・カルダン直談判事件」の舞台裏
- ✓ 会社を退職し、さらなる高みを目指してヨーロッパへ留学した日々
- ✓ 30歳にしてイタリア・フィレンツェで世界の一流と渡り合った経験
- ✓ 71歳の私が、今なお情熱を持って英語に触れ続ける理由
英語を始めた頃は世界とつながる未来など想像していなかった
中学浪人から始まった挑戦
私の英語との付き合いは、決して華やかなものではなかった。スタートは15歳。高校受験に失敗し、周囲から遅れをとった中学浪人時代だ。絶望の中で手書きの週間計画表を作り、テレビの誘惑を断ち切って教科書にしがみつく毎日。それが私のすべての原点である。
勉強の成功体験が人生を変えた
わからないなりに計画を死守し、猛烈な「反復」を繰り返した結果、模試の成績は急上昇した。この時に得た「自分を管理し、継続すれば結果は変えられる」という小さな成功体験が、私の人生の土台をひっくり返したと感じる。
英会話への興味が芽生えた
成績が伸びるにつれて、ただの受験科目に過ぎなかった英語に対して、「実際に話してみたい」「この言葉の先にある世界を見てみたい」という純粋な好奇心が芽生え始めた。
ESCとの出会いが英語人生のスタートになった
高校入学後、私は福岡の「ESC九州外語学院」の門を叩いた。ここでの出会いが、私の本格的な英会話人生のキックオフとなる。
Dialogの反復練習に没頭した日々
学校の文法重視の授業とは異なり、ネイティブの生きた音声をひたすら真似るリピート訓練(Dialog)。私は浪人時代に培ったストイックな習慣をそのまま持ち込み、自宅のラジカセの前で、口の筋肉が引きつるほど音読を繰り返した。みんなが遊んでいる間に、私は確実に前進している。その実感が何よりの快楽だった。
英語が少しずつ聞こえ始めた
意味は後からついてくればいい。幼児が言葉を覚えるように、まずは音を体に染み込ませる。そんな訓練を続けているうちに、ネイティブの英語がクリアな塊として耳に飛び込んでくるようになった。
英語が好きになっていった
通じなかった音が通じるようになり、聞き取れなかったスピードについていけるようになる。その成長の楽しさに、私は完全に味をしめ、英語という底なしの魅力に没頭していったのである。
JTB添乗員時代に訪れた思いがけない出来事

(これはJTB添乗員時代にローマのサン・ピエトロ寺院前で撮った写真)
小井手伊勢子先生との出会い
高校を卒業した私は、JTB(日本交通公社)福岡支店に入社し、プロの添乗員として海外の現場を飛び回る多忙な日々を送っていた。そんなある日のこと、私が随行したツアーのメンバーの中に、広島の小井手服装研究所(のちの学校法人小井手学園)の創立者であり、日本の洋裁界のレジェンドである小井手伊勢子先生がおられた。この出会いが、後に私の人生を大きく動かすきっかけとなった。
※ 小井手伊勢子先生──広島の洋裁教育を切り拓いた先駆者であり、小井手学園の創設者。
「ピエール・カルダンに会いたい」
ツアーの最中、小井手先生はいきなり私に向かって「添乗員さん、私ピエール・カルダンに会いたいのよ」と仰り、とある日本の大物政治家からの直筆の手紙を私に見せられた。パリ現地での、あまりにも突飛で重たい無茶振り。普通なら「個人行動は不可能です」と断るところだろう。
パリの免税店ヘレンデールへの相談
しかし、私には仲のいい相談相手がいた。仕事でお付き合いのあったパリの免税指定店「ヘレンデール(HELENE DALE)」の店主に、ダメ元でこの状況を相談してみたのである。

(当時お世話になったパリの免税店ヘレンデールのショップカード)
フランス大使館へ向かうことになった
私の熱意を感じ取ってくれた店主は、驚くべき行動に出てくれた。「とにかく、当時の在フランス日本大使館の北原大使に連絡してみよう」という話になり、私たちはそのままフランス大使館へと赴くことになったのである。
そして私はピエール・カルダンと会うことになった
北原大使の電話一本で話が動いた
大使館で対面した北原大使は、「どうかなぁ。ピエールは非常に忙しい男だし、急に会ってくれるかね……」と苦笑いしながらも、その場で受話器を取り、カルダンのオフィスへ直接電話を入れてくださった。すると、私自身も驚いたことに、その電話一本で面会が決まった。
小井手先生と共にカルダンを訪問
私は小井手先生に随行し、ピエール・カルダンのアトリエを訪問した。きらびやかなファッションの最高峰の現場。ラジカセの前で泥臭く英語を繰り返していたただの青年にすぎなかった自分が、世界の最先端のアトリエにいることに奇妙な感動を感じていた。
第1秘書から思いがけない言葉を掛けられた
無事に面会のアテンドを終えたとき、ピエール・カルダン氏の第一秘書を務めていた日本人女性から、思いがけない言葉を掛けられた。私という人間の行動力や、物怖じしないコミュニケーション能力を、彼女はずっと見ていたのだと思う。
**「あなた、とても面白いわね。今度、東京に支店を出す計画もあるし、エクサンプロヴァンス大学出たらうち(ピエール・カルダン)で働いてみない?」**
それは、当時の私には信じられないような話だった。
小井手先生からのお誘い
さらに後日、この無茶振りを異国の地で見事に叶えてみせた私を大変気に入ってくださった小井手先生からは、広島の高級料亭に招かれて接待され、孫娘さんを紹介されながら「婿養子にどうだね」という驚くようなフリまで受けることになる(さすがに恐れ多く、丁重にお断りしたが。😂)。
こうした出会いを経て、私の胸の中で「もっと広い世界へ出て、本格的に語学を学び、自分を試してみたい」という情熱が大きくなっていったと思う。そして私は、JTBを退職してヨーロッパへの留学を決意した。
イギリス・フランスへの留学でさらに世界が広がった
イーストボーンスクールオブイングリッシュへ
会社を辞め、まず私が向かったのはイギリスの語学学校「イーストボーン・スクール・オブ・イングリッシュ」への留学だった。そこは、これまでのビジネスの現場とはまた違う、本物のグローバルな青春の空間だった。
世界中の学生との交流
学校には、ヨーロッパ各国をはじめ世界中から志を持った若者たちが集まっていた。彼らと寝食を共にし、お互いの文化や夢について語り合う日々が始まった。

(イーストボーンの英語学校の中庭でイギリス人教師及び日本人学友と撮った写真)
エクサンプロヴァンス大学で学んだ日々
イギリスでの経験を経て、私の知的好奇心はさらに広がり、次なる舞台としてフランスのエクサンプロヴァンス大学への留学を果たす。南仏の美しい光の中で学ぶ日々は、私の感性を大きく刺激した。

(エクサンプロヴァンス大学の中庭で学友のアメリカ人女性2人と撮った写真)
英語は試験科目ではなくコミュニケーションだった
そこでは、世界中から集まる優秀な学生やアメリカ人学生たちとの交流が日常となった。ラジカセの前で培った私の「英語脳」は、海外の異なる言語環境のなかにあっても、全く物怖じすることなく機能してくれた。英語はテストのための道具ではない。人と繋がるためのコミュニケーションの道具なのだと実感した。
30歳、イタリア・フィレンツェでの挑戦と出会い
日本料理店開業プロジェクト
留学を終えて帰国し、キャリアを重ねた私は、30歳くらいの頃、イタリア・フィレンツェにて和食レストラン「絵伊都(エイト)」を開業する一大プロジェクトの現地ジェネラルマネージャーを任されることとなった。

(現地マネージャーをしていた時のオフィスでの写真)
アメリカ企業副社長からの誘い
ある日、アメリカの超大手百貨店・通販会社「JCペニー」の副社長が、GucciやFendiの工房を視察する際の「随行と接待」を行うよう指示された。私は持てる英語力を尽くし、一流の教養を交えながら彼らをエスコートした。
すると親しく話をしていたその副社長から、またしても**「お前は本当に面白い男だ。どうだ、うちのアメリカ本社に来ないか?」**と、その場でスカウトを受けることになった。
ただ、当時の私はJCペニーがどんな会社であるかを知らず、このお誘いも断った………行っておけば、違った人生を歩んだかも。😂
英国領事との交流・日英協会との縁
さらにその後、ザ・パック株式会社の勤務で大阪にいた時代には、日頃のビジネスと英語での交流が縁となり、在大阪イギリス領事館の領事、およびある日本企業の社長からの直々の推薦を受け、なんと「日英協会」の正会員に名を連ねることになる。
その縁から、領事館の招待で、英国対英投資局が主催する格式高い「経済ミッション」のメンバーとして招かれるという、普通の一会社員ではあり得ないような幸運に恵まれた。
振り返ると人生は英語によって何度も広がった
英語は資格ではなかった
これらの激動の経験を通じて、私が心の底から実感しているのは、英語とは単なる履歴書を飾るための「資格」や「お勉強」ではないということだ。
英語は出会いを生む道具だった
英語は、自分では予想もしなかった出会いを連れてきてくれる魔法なのだ。もし私が15歳の大失敗のとき、時間管理を放棄して英語を諦めていたら、パリで大使を動かすことも、カルダンから誘われることも、フィレンツェで世界のトップをアテンドすることも、イギリス領事館の推薦や招待ことも、何一つとして起きていなかった。
未来は誰にも予測できない
今、机の上でスマホやアプリを開いて英語を「素振り」しているあなたに、数年後どんな未来が訪れるかは、誰にも、GoogleのAIにさえ予測することはできないのだ。
まとめ
私は英語で人生を変えようと思っていたわけではなかった
偉そうなことを色々と語ってしまったが、15歳や20代当時の私が、「よし、英語で一発人生を変えてやろう!」などと大それた野望を抱いていたわけでは決してない。ただ、目の前の計画をこなし、昨日より一歩前進するストイックな充実感に味をしめていただけだ。
ただ続けていたら世界が広がった
しかし、意味も分からずラジカセの前で反復し、英語の語順感覚を身につけて、ただ淡々と継続していたら、ある日突然、世界の方が向こうから私を見つけて、引っ張り上げてくれたという感じがする。人生の可能性の扉が次々と開いていったのは間違いない。
英語は人生の可能性を広げる力を持っている
71歳になり、現役のタクシードライバーとして福岡の街を走っている今も、私の英語の冒険は終わっていない。車内に外国人の乗客を迎えれば、一瞬にしてそこは世界と繋がる空間になるからだ。英語がもたらす可能性の大きさは、何歳になっても変わらない。
次にどんな出会いが待っているかは誰にもわからない
15歳のどん底にいた中学浪人の私に、これだけの世界が開けたのだ。現代の恵まれた環境にいるあなたに、新しい世界が開けないわけがない。次にどんな面白いチャンスや出会いがあなたの人生に飛び込んでくるか、それはあなた自身が今日回す、その「再生ボタン」の先に待っている。
未来の予想図なんて小さくまとめる必要はない。ワクワクしながら新しい言語の回路を開くための「素振り」を始めていこうではないか。
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